2014年6月24日火曜日

頭の良さとは問いを生み出す能力である

知恵とは問うことなり、とはソクラテスあたりがすでにとっくの昔に言ってそうな気もするが、Google先生が僕らによりそっている21世紀の今においては、ますます、微分の解き方や世界の首都、外国語能力、PHPの書き方などといったコモディティ知識は何の価値をも生まなくなっていることは、つとに指摘されているとおりだ。

コンピュータが束になってかかってもできないこと、人間にしかできないこと、それは研ぎ澄まされた問いを発することである。

研ぎ澄まされた問いは時に、正味数十分の思索や調べものを経ている。研ぎ澄まされたその問いに到達しさえすれば、あとは答えを知るだけで、それは知的生産の成果となる。そして答えを知ることは、問いさえ確定すれば…指先ひとつでGoogleだ。

もちろん、たまにはGoogleでなく人間に聞いたほうがいい問いもある。
人間の問題は、研ぎ澄まされた質問をすると、かなりの率で
「へ?なんでそんなこときくの?」
「タイ?」(粂語の場合)
などと逆質問をされる件である。
もちろんこんな逆質問にまともに答えていては時間がいくらあっても足りないし、相手もそこまでこちらのために時間を割いてくれる気などさらさらないだろうから、
ちょっと市場まで~
とか
ばっ!べっ!べつにあんたと会話のきっかけつくりたくてテキトーな質問してるとかじゃないんだからね///
とでも答えておけばよいだろう。

ちまたの多くのエリート要請コースや経営者要請コースには、Googleの使い方という科目はないかもしれないが、本来これは公立小学校で指導要領に基づきみっちり教え込むべき必修単元になっていると考える。でなければデジタルデバイドは拡大する一途だろう。

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