という記事を読みました。
生徒や社員が創造性を発揮して注目されたとき、その先生や上司は必ずしも胸を張れるとは限らないことになります。
社員の創造性を引き出したければ、あえて退屈な会議を行い、本人に発言も与えないことで居眠り寸前にまで追い込んだうえで、そのあとで創造的アイデアを考えさせるのが効果的だろう、と記事は結んでいます。
という記事を読みました。
生徒や社員が創造性を発揮して注目されたとき、その先生や上司は必ずしも胸を張れるとは限らないことになります。
社員の創造性を引き出したければ、あえて退屈な会議を行い、本人に発言も与えないことで居眠り寸前にまで追い込んだうえで、そのあとで創造的アイデアを考えさせるのが効果的だろう、と記事は結んでいます。
プノンペン市内を走る車だかトゥクトゥクだかに
「日本人だからできる仕事がある」
というようなキャッチを日本語で入れた広告があったらしく、先日、友人がひどく憤慨していた。
「失礼じゃない?」
と。
友人は日本人ではないが日本語が読める。
日本人だからできる仕事などない。日本から外へ出る人間は、まずこの認識を得るところまでが第一段階だとおもう。
ただし例外がひとつだけある。
それは言うまでもなく、
「日本人顧客のテイストに合わせた仕事」
である。
ウチの和文DTPというのも、そのひとつである。
僕なりにあれこれ工夫はしてみたものの、結局、ネイティブでないと、日本人向け出版物の和文の最終品質管理と日本的ナウなデザインについては、どう人を組み合わせても、どう仕組みを作っても、サブパーな仕事すら難しいということを、5年かけて学んだ。
日本人向けの和食屋というのも同様の分野だとおもう(プノンペンでも、和食屋に入るたび僕らは、ニホンジン的観点からかなり「うるさい」)。
実見してないので推測だが、おそらく問題の広告もそういうことを言いたかったのではないかとおもう。
もちろん、当初日本人顧客を想定していたアニメや料理屋に日本人以外のファンがつくこともある。
逆に、つい最近コペッチにできた日本人経営の和食屋に入ったら、日本人に見えなかったのか、マグロをたのんだのに白身魚が出てきたなんて話も聞いた。
日本人テイストを目指すにしても、それをわかる客かどうかについて、日本人と非日本人をひそかに区別することはときに、経営的にも致命的となりうる。
日本人顧客を想定した宣伝文句を、日本人以外が目にして、意味を解することもあるのだ。
キャッチーであるがゆえに誤解を受けやすいような表現は、コピーライティングの常套かもしれないが、個人的には、やはり日本を出た以上、誤解のふところへ自らダイブしにいくような表現の是非については、認識をあらためていく必要があると思うし、自分もこれについては大いに気を付けないといけないなとおもった。
なお、論外なのは、
「日本人は責任感がある。仕事を遂行する。それにひきかえ××人は…」
などとのたまう方々である。
このタージマハールパレスホテルの事例を読んでいただき、そのあとにもう一度、同じことが言えるかを問うてみたいと感じる。
ひょっとして、そういうことを平気で言えてしまうひとというのは、責任感を組織に根付かせることに失敗していること、あるいはへたをするとそれが自分の仕事であることを認識すらしていないことを白状しているだけではなかろうか。
日本人は教育によって、たしかに責任感が強いタイプが多いかもしれない。とくに上記のタージ同様、地方住民ないし地方出身者にそういうタイプが多いと感じる。
日本から出た以上、教育は自分の仕事だと気づかねばならない。
それがいやなら、日本で働くほうがはるかに楽であろうことは言うまでもない。
そこにさえ気づけて、腹落ちすれば、海外で働くというのは俄然やりがいのある愉しいことになってくるだろう。
という相談回答を読みました。
アホ投稿とおもって油断していたので、ちょっとほっこりしました。
僕の二人の息子もいつか気がつく日がくるでしょう。
賢く、多文化にさらされている二人なので、もう気づいているかもしれませんが。