2014年9月15日月曜日

三次元でも真似できる韓流と、無理な日流 ― BoAとメガゾーン23に見る

むかしSparrowsで毎晩のようにかかっていたBoAのPVをなつかしく観た。


韓流の最大の特徴って、
「三次元の私たちでも真似できる!」
「ていうか真似したい!」
「真似しよう!」
って思わせるところまで降りてきてくれているところだとおもう。

日本のアニメヲタが異口同音によく言うのは
「三次元が二次元にかなうわけがない」
ということだ。

たしかに、メガゾーン23のEVEを観た後に宮里久美を見てしまうと、アイドルヲタの僕といえども悲観的な気持ちにならざるをえない(笑)。


宮里久美という素材にではない。
「Kumi」「Kumi」「Kumi」と大書されたジャケット。
テロップの手書き文字。
ナウでイマい振り付け。
物理法則に縛られたヘアスタイル。
アイドルとは、現実世界において、その時代とその現場に居合わせたおおぜいの人々の協力のもとに架構された、賞味期限付きの擬似現実である。
また、そうであればこそ総合芸術の名にふさわしいというのが僕の持論ではある。
反面、三次元を制約するそうしたさまざまな条件から逃れることができない。
その制約の中であがくからこそ、常に、アイドルとは美しい。
だがその制約があるからこそ、ある面では永遠に、二次元を超えることができないということも、また認めざるを得ない。

もちろん、ある面でオリジナルを超えるコスプレに出会うこともある。
だが、それはオリジナルキャラの模倣によって達成されるものではなく、オリジナルキャラとは違う独自の自分の魅力を、血の出るような努力でもって開花させた結果であるか、本人に自覚なく開花してしまっている(笑)結果にすぎない。

日本の萌えは、三次元の衆生たちにとって、真似をすることができないものなのだ。

いや、正確にいえば、真似することは自由だけれども、魅力においてオリジナルと張り合うことは、万人に可能なことではない、大変ハードルの高い存在なのである。

東南アジアではもちろん、日本の萌えを愛好している人々も多い。
が、一般ピープルのあいだではどちらかというと、韓国風のファッション、韓国風のクィヨミの模倣を見ることが多い。
それはやはり、三次元の我々が日流を真似てもとうてい追いつけないが、韓流を真似るのは簡単かもと、思わせる要素が大いにあるからだとおもう。

考えてみれば日本の萌えとは、もともと、万人に共有されることを想定した感性ではなかった。
むしろ、萌えとは、ある種犯罪的な香りをも伴った、日陰者の社会不適合者たちによって共有される感性でこそあったのではなかったか。

いま日本政府がクールジャパンなどと言って、萌えを世界に広めようとしていろいろやっているが、これは萌えのそうした本来の隠微なパワーを殺す効果を持っている。

よってこれは私見だが、日本の萌えは、万人にわかってもらう必要はないとおもう。
いやむしろ、萌えとは、万人にわかってもらうようなものであってはならないのだ。

クールジャパンとして日本文化を広めたいなら、萌え以外のものを広める方向へシフトしてもらうほうが、お互いにとって健全な方向だと思います。

なぜなら僕らは三次元を超克し、二次元に代表されるカルチャーを築いていくからである。
その手段として、三次元のキャンバスに二次元のイデアを射影することをやめない。
それこそが、人間を動物から弁別する唯一の進化の方向性であると確信しているからである。
そしてけだし、進化とは淘汰にほかならない。

0 件のコメント:

コメントを投稿