長い間、調べなきゃ調べなきゃ、と思っていたんですが、
「カンボジアで教育を受けさせていて、それで教育内容は全部習得できたとしても、資格として、米国とかの大学に将来入れるものなのか? というかそもそも、教育内容をちゃんと習得できるものなのか?」
という疑問への具体的な答えを、僕はずっと知りませんでした。
知らないままに、早く調べなきゃと思いつつ、子供は2人とも幼稚園に入り、小学校に入り、そして上は早くも小学四年生になってしまいました。
こんな親は米国とかだったらきっと育児怠慢でとっくに逮捕されているでしょう。
2016年2月18日木曜日
2016年2月14日日曜日
息子の学校から手紙が来たけど一読してまるで解読できなかったので辞書見ながら解読したよ!
息子が通ってる英語の学校「The CAMFIRST SCHOOL」からお手紙が来ました。
この学校は、インターっていうより、英語の学校です。
うちから徒歩3分ととても近いし、地に足が着いた方々がかよっているので、全人的教育という意味で非常に気に入っております。
英語以外の科目については、ホームスクーリング状態です。
それについてはまた稿をあらためます。
さて、このお手紙なんですが、上半分と下半分で内容が分かれており、上半分は学費払えということでとてもわかりやすいんですが、下半分が、さらっと一読しただけでは、お恥ずかしい話、まったく意味がわかりませんでした。
これは「はぁ? 意味わかんない」とか日本のJKが言うアレではなくて、純粋に、文字どおり、私のクメール語力不足で、解読できなかったのです。
そこで、日曜の夜をちょっと時間割いて、辞書ひきひき、解読に挑むことにしました。
この学校は、インターっていうより、英語の学校です。
うちから徒歩3分ととても近いし、地に足が着いた方々がかよっているので、全人的教育という意味で非常に気に入っております。
英語以外の科目については、ホームスクーリング状態です。
それについてはまた稿をあらためます。
さて、このお手紙なんですが、上半分と下半分で内容が分かれており、上半分は学費払えということでとてもわかりやすいんですが、下半分が、さらっと一読しただけでは、お恥ずかしい話、まったく意味がわかりませんでした。
これは「はぁ? 意味わかんない」とか日本のJKが言うアレではなくて、純粋に、文字どおり、私のクメール語力不足で、解読できなかったのです。
そこで、日曜の夜をちょっと時間割いて、辞書ひきひき、解読に挑むことにしました。
2014年10月11日土曜日
親の気持ちは親にならずともわかるとか言うひとがいるが僕は無理だった。この歌を聴いてボロボロ泣けないようならあなたも無理だとおもう
実家でふと聴こえてきた知らない歌
こんなしょーもない歌でボロボロ泣けた、
親というのはそんな理不尽な本能プログラムが発動してしまっている存在である。
ははは
高等生物になればなるほど教育は重要になっていくわけで、
すると1万匹子供産んで残るやつだけ生き残れとかやってたら
効率悪くて仕方ないわけだ。
21世紀になって人類はますます進化の速度を上げているから、
一人一人の子供が必要な教育の量は、
僕らが子供の頃に比しても飛躍的に増していくとおもう。
それはまた、無駄なことを教えている暇などもったいないという考えにもつながる。
何が「無駄」かは親によっても子供の適性によっても異なるだろうけれど。
正解は、その子供が 『子孫』 を残せるかどうかによってのみ判定される。
ジーン的な、もしくはミーム的な。
こんなしょーもない歌でボロボロ泣けた、
親というのはそんな理不尽な本能プログラムが発動してしまっている存在である。
ははは
高等生物になればなるほど教育は重要になっていくわけで、
すると1万匹子供産んで残るやつだけ生き残れとかやってたら
効率悪くて仕方ないわけだ。
21世紀になって人類はますます進化の速度を上げているから、
一人一人の子供が必要な教育の量は、
僕らが子供の頃に比しても飛躍的に増していくとおもう。
それはまた、無駄なことを教えている暇などもったいないという考えにもつながる。
何が「無駄」かは親によっても子供の適性によっても異なるだろうけれど。
正解は、その子供が 『子孫』 を残せるかどうかによってのみ判定される。
ジーン的な、もしくはミーム的な。
2014年9月28日日曜日
漫画やネットアクセスを子供に制限する合理的理由がどうしても見つけられない。自分は親失格なのでしょうか。
子供の頃、たしか小学5年生ぐらいのことだったとおもうが、
「漫画とどのようにつきあうか」
というテーマで、学校の国語の時間に作文を書かされたことがある。
僕はひねくれた子供だった。
答えのある問題が嫌いだった。
とくに、答えなんか本当はないくせに、あるふりをする科目、すなわち国語が大嫌いだった。
正確にいえば、国語そのものじゃなく、国語に倫理をこっそり混ぜ込もうとする態度が嫌いだった。
よってその作文のときも、求められていると感じた答えにそって
「漫画は良くないと思います。だから、これからは、なるべく読まないようにしようと思います。」
などという作文は絶対に書きたくないと思った。
それで、あえて
「漫画は悪くないと思います。ちゃんと自分の頭で考えて、良い漫画を読めば良いと思います。」
と書いたら、担任の先生が最優秀賞をくれたのには驚いた。
わけがわからなかったよ…。
後から知ったことだが、その当時、漫画は有害だという風潮がものすごくあったらしい。
先生としても内心、そう単純なものでもないだろう、というお考えがあったのかもしれない。
しかし文部省指導要領にある以上、先生としてはそれに従って授業を進めねばならなかったのだろう。
いま自分の子供が未来少年コナンとか名探偵コナンとかを嬉々として楽しんでいる。
未来少年コナンの全26話の全セリフを彼はほとんど諳んじている。
名探偵コナンについては残念ながら補習校に以前某君が寄付したセットが欠けてしまっており、全巻とはいかない。
しかし巻がある分については時間の問題ではないかという気がする。
ストーリーテリングの妙。
子供の心をつかむには、大人のそれをつかむ以上に、それが何より大切だ。
長期連載となって単行本の巻数を重ねるというのは、それ自体が、おおぜいの子供の心をつかむ激しい競争を勝ち抜いたことを意味している。
この点において、売れた漫画の単行本というのはすでに、多くの児童書を凌駕しているといえるだろう。
子供にとって、夢中になるということは何より大事なことだ。
いや、大人にとっても大事だと僕は思うが、とりわけ理屈抜きに夢中になれることは子供の特権である。
それを子供の教育に活かさない手はないとおもうのだが、どうだろうか。
子供を夢中にさせるコンテンツは、良いコンテンツである。
まず、このことを前提として、以下の話を進めたい。
児童書と有名漫画の大きな違いは、もう一つある。
それは言うまでもなく、漫画は絵や漫画的記号が豊富であり、かつ、有名漫画であればたいてい、その絵や漫画的記号の描き方は、状況描写を極めて正確に含んでいるということだ。
これによって、読み手は、文字からだけでなく、視覚的にも、情報を豊富に取り入れることができる。
児童書擁護派の大人が、逆に、それをこそ、漫画の悪い点なのだと言うのを見たことがある。
絵から安易に情報を読み取ってしまうことに慣れてしまうと、文字を読み取る能力を磨く機会が奪われるというのだ。
果たしてそうであろうか。
大人たちの世界では、今、インフォグラフィックというものが流行している。
非常に高く評価されているといえるとおもう。
いっときの流行では終わらずに、定着する気配を見せている。
これなども、児童書擁護派に言わせれば、悪なのであろうか。
従来も、インフォグラフィックとまで言わず、もっと原始的な、グラフというものがあった。
小学校の算数の時間には、いろいろなグラフの描き方と、その使い分け方を教わったものである。
これなども、児童書擁護派に言わせれば、悪なのであろうか。
算数の授業から撤廃されるべき単元なのであろうか。
言葉を覚えていく途上にある子供にとって、それを視覚的状況とともに、かつ、それが読み手の脳内にビビッドに生起させる聴覚的・嗅覚的・味覚的・触覚的状況とともに、読み取れるということは、言葉の語彙のみならず、それが使用されるべき適切なTPOを学習するうえにおいて、多大な助けになっているというのが僕の持論である。
ソースは僕の息子たちである。
はっきり言って、文字だけの本からは、ほとんど情報が得られないと言っていい。
なぜならば、そこに含まれている単語の意味を知らなければ、子供にとっては、その文を解することは、ほとんどお手上げとなってしまうからである。
自分が英文を読む場合のことを考えたらいい。
知らない単語が1個ぐらいであればなんとかなる。
知らない単語が1文あたり2個も3個もあったら、その文の意味をとることはかなり厳しくなってくる。
子供にとっても同じことだ。
そんなとき、文を読んでいるのではなく、会話しているのだったら、どうだろうか。
その場合には、相手の身振りや表情といった助けがある。
また、会話をしている状況という豊富な情報源がある。
それらを巨大な補助として、僕らは、わからない単語がかなり含まれてしまっていたとしても、かなりの程度まで、相手の言っていることを理解することができてしまったりする。
ソースは俺。
皆さんにもそういう体験はけっこうあるのではなかろうか。
子供にとって、何より大切なのは、経験である。
しかし、子供を一人で世界旅行へ送り出すことはなかなか難しい。
親だって忙しいので、子供と一緒に世界旅行へ行ってやれる親は、なかなかいない。
あるいは、虫の世界を旅したり、宇宙を旅したり、海底二万リーグを旅したりすることは、現代の科学技術水準では、まだかなり難しい。
だから、そうした環境で、そういう世界の人々と会話する体験も、本当に得ることは、困難である。
そこで、本があるのだ。
この点は、児童書派の方も、大いに同意してくださる点だろうとおもう。
子供たちは本によって、大いに疑似体験をすることができる。
本を精神の糧として、子供たちは成長する。
親や友人や先生が直接的に与えてやれない素敵な旅を、子供たちは本を通じて自由自在に楽しむだろう。
本こそは子供たちにとって不可欠の体験なのだ。
そして上で書いたように、その体験の質の豊富さ、あるいはそれ以前に体験の内容そのものの受容しやすさにおいて、漫画は児童書を上回っていることが多いとおもうのである。
漫画でのほうが、児童書でよりも、子供たちはより、そこに書かれている体験をしやすいだろう。
なぜならば、絵や漫画的記号の助けにより、たとえ知らない単語が多少あったとしても、子供はそこで提供されている体験を受容できる可能性が高まるからである。
もちろん、暴力的すぎる漫画や、性的すぎる漫画があるから、漫画は無分別に子供に与えるべきではない、という意見があるだろう。
それには100%同意する。
それと同時に、漫画でない書物のなかにも、そのようなものはいくらでもありますよね、と反論せざるをえない。
暴力的なものがあるとか、性的なものがある、というのは、漫画に限られた特性ではない。
インターネットへのアクセスも同様だと思う。
であるならば、なぜ子供に、漫画を与えてはならないのか。
児童書は漫画よりも、子供に与えるものとして「適切」とされるのか。
それに同意できない者は親失格なのか。
いろいろググってもみた。だが…。
僕には理解できないのである。
「漫画とどのようにつきあうか」
というテーマで、学校の国語の時間に作文を書かされたことがある。
僕はひねくれた子供だった。
答えのある問題が嫌いだった。
とくに、答えなんか本当はないくせに、あるふりをする科目、すなわち国語が大嫌いだった。
正確にいえば、国語そのものじゃなく、国語に倫理をこっそり混ぜ込もうとする態度が嫌いだった。
よってその作文のときも、求められていると感じた答えにそって
「漫画は良くないと思います。だから、これからは、なるべく読まないようにしようと思います。」
などという作文は絶対に書きたくないと思った。
それで、あえて
「漫画は悪くないと思います。ちゃんと自分の頭で考えて、良い漫画を読めば良いと思います。」
と書いたら、担任の先生が最優秀賞をくれたのには驚いた。
わけがわからなかったよ…。
後から知ったことだが、その当時、漫画は有害だという風潮がものすごくあったらしい。
先生としても内心、そう単純なものでもないだろう、というお考えがあったのかもしれない。
しかし文部省指導要領にある以上、先生としてはそれに従って授業を進めねばならなかったのだろう。
いま自分の子供が未来少年コナンとか名探偵コナンとかを嬉々として楽しんでいる。
未来少年コナンの全26話の全セリフを彼はほとんど諳んじている。
名探偵コナンについては残念ながら補習校に以前某君が寄付したセットが欠けてしまっており、全巻とはいかない。
しかし巻がある分については時間の問題ではないかという気がする。
ストーリーテリングの妙。
子供の心をつかむには、大人のそれをつかむ以上に、それが何より大切だ。
長期連載となって単行本の巻数を重ねるというのは、それ自体が、おおぜいの子供の心をつかむ激しい競争を勝ち抜いたことを意味している。
この点において、売れた漫画の単行本というのはすでに、多くの児童書を凌駕しているといえるだろう。
子供にとって、夢中になるということは何より大事なことだ。
いや、大人にとっても大事だと僕は思うが、とりわけ理屈抜きに夢中になれることは子供の特権である。
それを子供の教育に活かさない手はないとおもうのだが、どうだろうか。
子供を夢中にさせるコンテンツは、良いコンテンツである。
まず、このことを前提として、以下の話を進めたい。
児童書と有名漫画の大きな違いは、もう一つある。
それは言うまでもなく、漫画は絵や漫画的記号が豊富であり、かつ、有名漫画であればたいてい、その絵や漫画的記号の描き方は、状況描写を極めて正確に含んでいるということだ。
これによって、読み手は、文字からだけでなく、視覚的にも、情報を豊富に取り入れることができる。
児童書擁護派の大人が、逆に、それをこそ、漫画の悪い点なのだと言うのを見たことがある。
絵から安易に情報を読み取ってしまうことに慣れてしまうと、文字を読み取る能力を磨く機会が奪われるというのだ。
果たしてそうであろうか。
大人たちの世界では、今、インフォグラフィックというものが流行している。
非常に高く評価されているといえるとおもう。
いっときの流行では終わらずに、定着する気配を見せている。
これなども、児童書擁護派に言わせれば、悪なのであろうか。
従来も、インフォグラフィックとまで言わず、もっと原始的な、グラフというものがあった。
小学校の算数の時間には、いろいろなグラフの描き方と、その使い分け方を教わったものである。
これなども、児童書擁護派に言わせれば、悪なのであろうか。
算数の授業から撤廃されるべき単元なのであろうか。
言葉を覚えていく途上にある子供にとって、それを視覚的状況とともに、かつ、それが読み手の脳内にビビッドに生起させる聴覚的・嗅覚的・味覚的・触覚的状況とともに、読み取れるということは、言葉の語彙のみならず、それが使用されるべき適切なTPOを学習するうえにおいて、多大な助けになっているというのが僕の持論である。
ソースは僕の息子たちである。
はっきり言って、文字だけの本からは、ほとんど情報が得られないと言っていい。
なぜならば、そこに含まれている単語の意味を知らなければ、子供にとっては、その文を解することは、ほとんどお手上げとなってしまうからである。
自分が英文を読む場合のことを考えたらいい。
知らない単語が1個ぐらいであればなんとかなる。
知らない単語が1文あたり2個も3個もあったら、その文の意味をとることはかなり厳しくなってくる。
子供にとっても同じことだ。
そんなとき、文を読んでいるのではなく、会話しているのだったら、どうだろうか。
その場合には、相手の身振りや表情といった助けがある。
また、会話をしている状況という豊富な情報源がある。
それらを巨大な補助として、僕らは、わからない単語がかなり含まれてしまっていたとしても、かなりの程度まで、相手の言っていることを理解することができてしまったりする。
ソースは俺。
皆さんにもそういう体験はけっこうあるのではなかろうか。
子供にとって、何より大切なのは、経験である。
しかし、子供を一人で世界旅行へ送り出すことはなかなか難しい。
親だって忙しいので、子供と一緒に世界旅行へ行ってやれる親は、なかなかいない。
あるいは、虫の世界を旅したり、宇宙を旅したり、海底二万リーグを旅したりすることは、現代の科学技術水準では、まだかなり難しい。
だから、そうした環境で、そういう世界の人々と会話する体験も、本当に得ることは、困難である。
そこで、本があるのだ。
この点は、児童書派の方も、大いに同意してくださる点だろうとおもう。
子供たちは本によって、大いに疑似体験をすることができる。
本を精神の糧として、子供たちは成長する。
親や友人や先生が直接的に与えてやれない素敵な旅を、子供たちは本を通じて自由自在に楽しむだろう。
本こそは子供たちにとって不可欠の体験なのだ。
そして上で書いたように、その体験の質の豊富さ、あるいはそれ以前に体験の内容そのものの受容しやすさにおいて、漫画は児童書を上回っていることが多いとおもうのである。
漫画でのほうが、児童書でよりも、子供たちはより、そこに書かれている体験をしやすいだろう。
なぜならば、絵や漫画的記号の助けにより、たとえ知らない単語が多少あったとしても、子供はそこで提供されている体験を受容できる可能性が高まるからである。
もちろん、暴力的すぎる漫画や、性的すぎる漫画があるから、漫画は無分別に子供に与えるべきではない、という意見があるだろう。
それには100%同意する。
それと同時に、漫画でない書物のなかにも、そのようなものはいくらでもありますよね、と反論せざるをえない。
暴力的なものがあるとか、性的なものがある、というのは、漫画に限られた特性ではない。
インターネットへのアクセスも同様だと思う。
であるならば、なぜ子供に、漫画を与えてはならないのか。
児童書は漫画よりも、子供に与えるものとして「適切」とされるのか。
それに同意できない者は親失格なのか。
いろいろググってもみた。だが…。
僕には理解できないのである。
2014年9月22日月曜日
Facebook本社近所の女子中学生全員「プログラミングって何?」
という記事。
米国も庶民は意外と遅れてるのですね。
カンボジアにも大いに希望がありますね。
ザッカーバーグが示唆しているように、大人は誰も、今の少年少女が大人になる頃にどんな仕事があるか、まったくわかっていません。
しかし理数科が非常に重要になるということだけは間違いないとおもいます。
2014年9月14日日曜日
『パパはやっぱりすばらしい』(元祖天才バカボンED)は、パパが死んだ後に子供が歌ってると想像したら、ぶわっ
となった。
ねぇ パパあそぼうよ
いつものように
僕もろくでもない人間だが、家族にとってだけはすばらしいパパなのだ。
これでいいのだ。
ねぇ パパあそぼうよ
いつものように
僕もろくでもない人間だが、家族にとってだけはすばらしいパパなのだ。
これでいいのだ。
2014年9月10日水曜日
ママがウンコの絵文字ばっかり投稿するのを見て、親もまた人なりと知ったとき、少年は大人になる
という相談回答を読みました。
アホ投稿とおもって油断していたので、ちょっとほっこりしました。
僕の二人の息子もいつか気がつく日がくるでしょう。
賢く、多文化にさらされている二人なので、もう気づいているかもしれませんが。
2014年9月7日日曜日
教養、総合力、専門性、借金、無為の4年…どれも大学へ行かないほうが効率良く得られる件
ミニ学位に関する記事を読みました。
教養は、別に大学で教えてくれなくても、自分でガンガン本とかネットで読書すれば、いくらでも身につけることができます。
サークルだって、大学で入らなくても、ネット上とかでいくらでもコミュニティを見つけて参加することができます(僕の大学時代がまさにそうでした。当時はパソコン通信とJUNETでしたが。大学で入ったサークルはぜんぶフェードアウトしてしまいました)。
大卒者には総合力がある、と企業の人事担当の方はおっしゃいますが、僕はこれには真逆の意見です。少なくともカンボジアでは、大卒者より大卒でない人間のほうが総合力があります。それは、総合力の多くは社会で否応なしに学ばされるスキルだからです(今現在この瞬間にも僕がいまだに学びつつあるように)。
大学で専門性を学ぶ、といいますが、大粒で時代遅れな専門性が仕事で役立つことはありません。本当の専門性は仕事でしか得られません。なぜなら仕事をして初めて、どのような需要があるかを実地に知ることになるからです。実地の特定の需要と結びついていないスキルに誰も用などありません。
大学へ行くと、えてして奨学金という重い借金を思わず背負い、それに30代のあいだ苦しめられることができます。しかしそのようなお金に関するつらくて貴重な学びは、別に大学ヘ行かなくても、その気になればいつでも存分に得ることができます(まさに僕が(ry )。
大学とは4年間のモラトリアムであるといわれます。人生の中でもっとも有為な時を、4年間もまとめて無為のるつぼへ放り込む、大変ぜいたくな時間です。しかしこれとて、起業でもしてうまくいけば、人生の中のどのタイミングであれ、4年間遊んで暮らすことは夢ではありません(実際には、一度起業のスリルと興奮を知ってしまうと、4年どころか3ヶ月も遊ばないうちにまたつい起業してしまうらしいですが、それを我慢して4年間遊ぶことは、理論上は不可能ではないでしょう)。
結論:
大学へ行けば得られる、と皆さんがおっしゃっているもののほとんどは、大学へ行かなくても、ほかでもっと効率よく得ることができます。
人生、一生勉強です。忙しい僕らは、このめまぐるしく進歩していく世界において、そのたびに悠長に4年間、大学行ってるわけにもいきません。
であるならば、ミニ学位でいいんじゃないの? という気はすごくします。
ネットを中心とした学習によって得られるミニ学位は、リンク先記事でも述べられているように、これから、技術スキルにとどまらず、さまざまな分野のスキルにおいて、企業が真っ先に求める、就職に必須のものとなっていくのではないでしょうか。
日本語をある程度学んだひとが、さらに自分の日本語レベルを高めるために、プノンペン大学日本語学科に入るということはよくあります。
ウチの元社員でも、そういうひとがいます。
しかしプノンペン大学では、そのひとの日本語レベルがどんなに高くても、まずそのひとを一年生に放り込む由です。
それはすなわち、初学者たちと一緒に「あ」「い」「う」「え」「お」の音読からやらなければならないことを意味します。
それを聞いて僕は、なんという時間の無駄だろうと思いました。
かつ、総合大学と銘打っていますので、日本語以外の教科も受講し、それらの教科の試験に通らなければなりません。
なんという時間の無駄だろうと思いました。
こういう事情は、もちろん世界じゅうどこの総合大学においても、おそらく似たり寄ったりではないかとおもいます。
なお、原文はnanodegreeですが、内容を読むと粒度的にはdeciぐらいだとおもうので、ここでは仮にミニ学位と訳しておきます。
nanodegreeっていったら、4年を10^9で割って、0.126秒で身に付けられるものでなければいけませんね!
将来的にはそういうものもできてくるかもしれませんね。
そのときのためにnanodegreeという言葉は温存しておくほうがよいとおもいます。
でないと、本当にそれができたときに、femtodegreeとか呼ばないといけなくなります。
逆インフレですね。
教養は、別に大学で教えてくれなくても、自分でガンガン本とかネットで読書すれば、いくらでも身につけることができます。
サークルだって、大学で入らなくても、ネット上とかでいくらでもコミュニティを見つけて参加することができます(僕の大学時代がまさにそうでした。当時はパソコン通信とJUNETでしたが。大学で入ったサークルはぜんぶフェードアウトしてしまいました)。
大卒者には総合力がある、と企業の人事担当の方はおっしゃいますが、僕はこれには真逆の意見です。少なくともカンボジアでは、大卒者より大卒でない人間のほうが総合力があります。それは、総合力の多くは社会で否応なしに学ばされるスキルだからです(今現在この瞬間にも僕がいまだに学びつつあるように)。
大学で専門性を学ぶ、といいますが、大粒で時代遅れな専門性が仕事で役立つことはありません。本当の専門性は仕事でしか得られません。なぜなら仕事をして初めて、どのような需要があるかを実地に知ることになるからです。実地の特定の需要と結びついていないスキルに誰も用などありません。
大学へ行くと、えてして奨学金という重い借金を思わず背負い、それに30代のあいだ苦しめられることができます。しかしそのようなお金に関するつらくて貴重な学びは、別に大学ヘ行かなくても、その気になればいつでも存分に得ることができます(まさに僕が(ry )。
大学とは4年間のモラトリアムであるといわれます。人生の中でもっとも有為な時を、4年間もまとめて無為のるつぼへ放り込む、大変ぜいたくな時間です。しかしこれとて、起業でもしてうまくいけば、人生の中のどのタイミングであれ、4年間遊んで暮らすことは夢ではありません(実際には、一度起業のスリルと興奮を知ってしまうと、4年どころか3ヶ月も遊ばないうちにまたつい起業してしまうらしいですが、それを我慢して4年間遊ぶことは、理論上は不可能ではないでしょう)。
結論:
大学へ行けば得られる、と皆さんがおっしゃっているもののほとんどは、大学へ行かなくても、ほかでもっと効率よく得ることができます。
人生、一生勉強です。忙しい僕らは、このめまぐるしく進歩していく世界において、そのたびに悠長に4年間、大学行ってるわけにもいきません。
であるならば、ミニ学位でいいんじゃないの? という気はすごくします。
ネットを中心とした学習によって得られるミニ学位は、リンク先記事でも述べられているように、これから、技術スキルにとどまらず、さまざまな分野のスキルにおいて、企業が真っ先に求める、就職に必須のものとなっていくのではないでしょうか。
日本語をある程度学んだひとが、さらに自分の日本語レベルを高めるために、プノンペン大学日本語学科に入るということはよくあります。
ウチの元社員でも、そういうひとがいます。
しかしプノンペン大学では、そのひとの日本語レベルがどんなに高くても、まずそのひとを一年生に放り込む由です。
それはすなわち、初学者たちと一緒に「あ」「い」「う」「え」「お」の音読からやらなければならないことを意味します。
それを聞いて僕は、なんという時間の無駄だろうと思いました。
かつ、総合大学と銘打っていますので、日本語以外の教科も受講し、それらの教科の試験に通らなければなりません。
なんという時間の無駄だろうと思いました。
こういう事情は、もちろん世界じゅうどこの総合大学においても、おそらく似たり寄ったりではないかとおもいます。
nanodegreeっていったら、4年を10^9で割って、0.126秒で身に付けられるものでなければいけませんね!
将来的にはそういうものもできてくるかもしれませんね。
そのときのためにnanodegreeという言葉は温存しておくほうがよいとおもいます。
でないと、本当にそれができたときに、femtodegreeとか呼ばないといけなくなります。
逆インフレですね。
2014年9月6日土曜日
シャーペンが鉛筆より高級でイケててオシャレで便利という誤った風潮にカンボジアもついに突入
きょう、長男(8)のシャーペンがブッ壊れました。
ペン先がひん曲がって、芯が詰まりました。
僕はこれを治そうと15分ぐらい投入しましたが、無理でした。
きょう学校でシャーペンがブッ壊れた長男(8)は、
授業中、芯を何とかして入れようと奮闘し、机じゅうを折れた芯だらけにしたそうです。
なぜなら彼は学校へ、そのシャーペン1本しか持っていっていなかったとのこと。
日本人ならば、たとえば僕らの世代ならば、「進研ゼミ」とか「とどろけ! 一番」などで
「シャーペンより鉛筆! シャーペンはすぐ芯が折れたりして時間の無駄。思い切り書けないので筆記速度も落ちる。受験には鉛筆を持っていこう。かつ、5本持って行こう」
「消しゴムは試験中落としてしまうかもしれない。自分で拾えばカンニング、試験官に拾ってもらえば時間ロス。受験へは消しゴムは2個持って行こう」
などの知恵は世間一般常識として身につけているものです。
しかしここはカンボジア。
そのような役立つ知識源に接する機会など得るべくもない長男(8)。
僕は彼に言いました。
「鉛筆ならこのようなことは起こらない」
「明日から学校へは、鉛筆5本持っていきなさい」
おもえば、鉛筆よりシャーペンのほうがイケてるみたいな風潮が日本でわきおこったのは、僕が小学生のころでした。
その後、日本人はとっくにその段階を卒業し、
シャーペンなど単にハッタリだけのオモチャであること
真剣な人間はシャーペンなど使わないこと
漢は黙って鉛筆であること
を全国民がすでに体得しているかと存じます。
しかしカンボジアは今やっと、鉛筆よりシャーペンのほうがカッコよくてオシャレでステキ!
な風潮に突入したようです。
DTPを学ぶ社員たちに、メモ用にノートと鉛筆を支給することにしました。
しかし社員たちに、その仕様を相談させたところ、鉛筆でなくシャーペンが良いということになりました。
細かいことに口は出さねえ!
が僕の経営モットーです。
いま社員たちはシャーペン使ってます。
しかし彼らもやがて気づく日が来ると確信しています。
ちなみに僕は何でもエナージェルですが…。
願わくば僕らの人生も経営も、シャーペンでなく鉛筆でありたいものです。
ペン先がひん曲がって、芯が詰まりました。
僕はこれを治そうと15分ぐらい投入しましたが、無理でした。
きょう学校でシャーペンがブッ壊れた長男(8)は、
授業中、芯を何とかして入れようと奮闘し、机じゅうを折れた芯だらけにしたそうです。
なぜなら彼は学校へ、そのシャーペン1本しか持っていっていなかったとのこと。
日本人ならば、たとえば僕らの世代ならば、「進研ゼミ」とか「とどろけ! 一番」などで
「シャーペンより鉛筆! シャーペンはすぐ芯が折れたりして時間の無駄。思い切り書けないので筆記速度も落ちる。受験には鉛筆を持っていこう。かつ、5本持って行こう」
「消しゴムは試験中落としてしまうかもしれない。自分で拾えばカンニング、試験官に拾ってもらえば時間ロス。受験へは消しゴムは2個持って行こう」
などの知恵は世間一般常識として身につけているものです。
しかしここはカンボジア。
そのような役立つ知識源に接する機会など得るべくもない長男(8)。
僕は彼に言いました。
「鉛筆ならこのようなことは起こらない」
「明日から学校へは、鉛筆5本持っていきなさい」
おもえば、鉛筆よりシャーペンのほうがイケてるみたいな風潮が日本でわきおこったのは、僕が小学生のころでした。
その後、日本人はとっくにその段階を卒業し、
シャーペンなど単にハッタリだけのオモチャであること
真剣な人間はシャーペンなど使わないこと
漢は黙って鉛筆であること
を全国民がすでに体得しているかと存じます。
しかしカンボジアは今やっと、鉛筆よりシャーペンのほうがカッコよくてオシャレでステキ!
な風潮に突入したようです。
DTPを学ぶ社員たちに、メモ用にノートと鉛筆を支給することにしました。
しかし社員たちに、その仕様を相談させたところ、鉛筆でなくシャーペンが良いということになりました。
細かいことに口は出さねえ!
が僕の経営モットーです。
いま社員たちはシャーペン使ってます。
しかし彼らもやがて気づく日が来ると確信しています。
ちなみに僕は何でもエナージェルですが…。
願わくば僕らの人生も経営も、シャーペンでなく鉛筆でありたいものです。
2014年9月5日金曜日
あらゆる学校は、親がまともかDQNかという軸と、親がリッチかプアかという軸により形成される4つの象限のいずれかに属する
のだと思う。
図解すると下図のようになる。
私の行った東京大学は、少なくとも私の交友の感じでは、第II象限という印象であった。もちろん全員がとは言いませんが。
下の動画は、タイの学校崩壊の様子。
これなどは第IV象限であろう。
成金層のバカ親のお子様たちとおもわれる。
先日、うちの子供2人を転校させたことを書いた。
現在子供を行かせている学校は、もう明確に第II象限である。
かなり第I象限寄りではあるが、少なくともIIIやIVではないということが何より大切なことだ。
学校の質とは、親のまともさ90%、カリキュラム5%、先生5%だと言ってもよい。
第I象限というのがもちろん理想だけれど…。
<親馬鹿>
余談ですが、長男(8)はさっそくSpelling Bee Competitionで3位を取りました。
gymnasticsのsを会場の雑音で聞き取れずに言わなかったので運悪く3位になってしまったが、それがなければ実力的に確実に1位だろうと思えた。
いやいや、わかっていますよ、運も実力のうち。
図解すると下図のようになる。
私の行った東京大学は、少なくとも私の交友の感じでは、第II象限という印象であった。もちろん全員がとは言いませんが。
下の動画は、タイの学校崩壊の様子。
これなどは第IV象限であろう。
成金層のバカ親のお子様たちとおもわれる。
先日、うちの子供2人を転校させたことを書いた。
現在子供を行かせている学校は、もう明確に第II象限である。
かなり第I象限寄りではあるが、少なくともIIIやIVではないということが何より大切なことだ。
学校の質とは、親のまともさ90%、カリキュラム5%、先生5%だと言ってもよい。
第I象限というのがもちろん理想だけれど…。
<親馬鹿>
余談ですが、長男(8)はさっそくSpelling Bee Competitionで3位を取りました。
gymnasticsのsを会場の雑音で聞き取れずに言わなかったので運悪く3位になってしまったが、それがなければ実力的に確実に1位だろうと思えた。
いやいや、わかっていますよ、運も実力のうち。
</親馬鹿>
2014年9月1日月曜日
李奈、頭をよくしてあげよう ― AKB川栄のユーキャン合格に思う
先月、AKB48の川栄李奈嬢がユーキャン挑戦企画で合格しました。
印象深かったのは、いまどきの通信教育はスマホでスキマ時間にも勉強ができるという点です。
こうなると本当に、学校とは、知識を得るために行く場所ではありませんね。
社会を学びに行く場としての役割は、なくなることがないとおもいますが。
元がどんなにバカであれ
家がどんなに貧しくあれ
住んでいる所がどんなにひどくあれ
今やインターネットを介して学びの機会は世界じゅうの万人に開かれているのです。
そう勇気づけてくれる川栄李奈さんのユーキャン合格でした。おめでとう!
ちなみに僕はべつにユーキャンのまわしものではありませんし、受講したこともありません。しかし小学校・中学校・高校と成績極端に落ちずに済んできたのは、進研ゼミのおかげであるとはおもっています。その基礎学力の蓄積がなければ、さすがに最後の半年の追い込みで東大現役合格は無理だったでしょう。
2014年6月24日火曜日
学歴で最も重要なのは最初の学歴である
別に幼児教育産業の回し者ではないのですが、人の成長において最も効果を生み出すものは学習そのものというより、学習に対する姿勢と取り組み方であるとおもう。これは「おもう」というより、厳然たる現実だとおもいますが。
「学習って大事だよね」
「学習って報われるよね」
「学習ってこうやると早いよね」
「学習する俺様カッケー」
こういう心的枠組みと学習スキルがアプリオリなものとして身につくか付かないか、その決定的な分かれ道となるのが、そのひとの一番最初の学歴であるとおもう。
幼稚園行ったひとなら幼稚園、行ってないひとなら小学校がそれということになる。
僕がブログの自己紹介欄の学歴に幼稚園から記しているのもその考え方からだ。
自分を振り返っても、またうちの子供らを見ていても、最初に通った幼稚園における動機づけや報奨付与が与える影響は多大であると感じます。その面で大学とかはそれに5%程度を付加するにすぎない。それは当然のことで、学習に対する姿勢と取り組みができている人だけを受け入れる前提となっているのが本来、高等教育であるべきだからだ。
近所のカンボジア人の子供らは、これができてないひとが実に多い。
それはもちろん本人のせいというより、親のせいなのである。
以下は学歴でなく家庭環境の話になってしまうが、親がそもそも、学習って大事だとおもってない。
家の中のゴミでも拾わすほうが大事だとおもっている。
それももちろん大事だが、学習のほうが大事、と考える家庭にしか、学習で明るい未来を開くことのできる知的生命体は生まれてこない。
妻は幸いにしてそのような考え方の親族の中にあって育ったため、カンボジアにおいて育った時代が不幸だったことから学はないけれども、学習は大事だという考え方は堅持しているのが僕とウマの合う点だ。
「学習って大事だよね」
「学習って報われるよね」
「学習ってこうやると早いよね」
「学習する俺様カッケー」
こういう心的枠組みと学習スキルがアプリオリなものとして身につくか付かないか、その決定的な分かれ道となるのが、そのひとの一番最初の学歴であるとおもう。
幼稚園行ったひとなら幼稚園、行ってないひとなら小学校がそれということになる。
僕がブログの自己紹介欄の学歴に幼稚園から記しているのもその考え方からだ。
自分を振り返っても、またうちの子供らを見ていても、最初に通った幼稚園における動機づけや報奨付与が与える影響は多大であると感じます。その面で大学とかはそれに5%程度を付加するにすぎない。それは当然のことで、学習に対する姿勢と取り組みができている人だけを受け入れる前提となっているのが本来、高等教育であるべきだからだ。
近所のカンボジア人の子供らは、これができてないひとが実に多い。
それはもちろん本人のせいというより、親のせいなのである。
以下は学歴でなく家庭環境の話になってしまうが、親がそもそも、学習って大事だとおもってない。
家の中のゴミでも拾わすほうが大事だとおもっている。
それももちろん大事だが、学習のほうが大事、と考える家庭にしか、学習で明るい未来を開くことのできる知的生命体は生まれてこない。
妻は幸いにしてそのような考え方の親族の中にあって育ったため、カンボジアにおいて育った時代が不幸だったことから学はないけれども、学習は大事だという考え方は堅持しているのが僕とウマの合う点だ。
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