2014年9月28日日曜日

漫画やネットアクセスを子供に制限する合理的理由がどうしても見つけられない。自分は親失格なのでしょうか。

子供の頃、たしか小学5年生ぐらいのことだったとおもうが、
「漫画とどのようにつきあうか」
というテーマで、学校の国語の時間に作文を書かされたことがある。

僕はひねくれた子供だった。
答えのある問題が嫌いだった。
とくに、答えなんか本当はないくせに、あるふりをする科目、すなわち国語が大嫌いだった。
正確にいえば、国語そのものじゃなく、国語に倫理をこっそり混ぜ込もうとする態度が嫌いだった。

よってその作文のときも、求められていると感じた答えにそって
「漫画は良くないと思います。だから、これからは、なるべく読まないようにしようと思います。」
などという作文は絶対に書きたくないと思った。

それで、あえて
「漫画は悪くないと思います。ちゃんと自分の頭で考えて、良い漫画を読めば良いと思います。」
と書いたら、担任の先生が最優秀賞をくれたのには驚いた。

わけがわからなかったよ…。

後から知ったことだが、その当時、漫画は有害だという風潮がものすごくあったらしい。
先生としても内心、そう単純なものでもないだろう、というお考えがあったのかもしれない。
しかし文部省指導要領にある以上、先生としてはそれに従って授業を進めねばならなかったのだろう。

いま自分の子供が未来少年コナンとか名探偵コナンとかを嬉々として楽しんでいる。
未来少年コナンの全26話の全セリフを彼はほとんど諳んじている。
名探偵コナンについては残念ながら補習校に以前某君が寄付したセットが欠けてしまっており、全巻とはいかない。
しかし巻がある分については時間の問題ではないかという気がする。

ストーリーテリングの妙。
子供の心をつかむには、大人のそれをつかむ以上に、それが何より大切だ。
長期連載となって単行本の巻数を重ねるというのは、それ自体が、おおぜいの子供の心をつかむ激しい競争を勝ち抜いたことを意味している。

この点において、売れた漫画の単行本というのはすでに、多くの児童書を凌駕しているといえるだろう。

子供にとって、夢中になるということは何より大事なことだ。
いや、大人にとっても大事だと僕は思うが、とりわけ理屈抜きに夢中になれることは子供の特権である。
それを子供の教育に活かさない手はないとおもうのだが、どうだろうか。

子供を夢中にさせるコンテンツは、良いコンテンツである。
まず、このことを前提として、以下の話を進めたい。

児童書と有名漫画の大きな違いは、もう一つある。
それは言うまでもなく、漫画は絵や漫画的記号が豊富であり、かつ、有名漫画であればたいてい、その絵や漫画的記号の描き方は、状況描写を極めて正確に含んでいるということだ。
これによって、読み手は、文字からだけでなく、視覚的にも、情報を豊富に取り入れることができる。

児童書擁護派の大人が、逆に、それをこそ、漫画の悪い点なのだと言うのを見たことがある。
絵から安易に情報を読み取ってしまうことに慣れてしまうと、文字を読み取る能力を磨く機会が奪われるというのだ。

果たしてそうであろうか。

大人たちの世界では、今、インフォグラフィックというものが流行している。
非常に高く評価されているといえるとおもう。
いっときの流行では終わらずに、定着する気配を見せている。

これなども、児童書擁護派に言わせれば、悪なのであろうか。

従来も、インフォグラフィックとまで言わず、もっと原始的な、グラフというものがあった。
小学校の算数の時間には、いろいろなグラフの描き方と、その使い分け方を教わったものである。
これなども、児童書擁護派に言わせれば、悪なのであろうか。
算数の授業から撤廃されるべき単元なのであろうか。

言葉を覚えていく途上にある子供にとって、それを視覚的状況とともに、かつ、それが読み手の脳内にビビッドに生起させる聴覚的・嗅覚的・味覚的・触覚的状況とともに、読み取れるということは、言葉の語彙のみならず、それが使用されるべき適切なTPOを学習するうえにおいて、多大な助けになっているというのが僕の持論である。

ソースは僕の息子たちである。

はっきり言って、文字だけの本からは、ほとんど情報が得られないと言っていい。
なぜならば、そこに含まれている単語の意味を知らなければ、子供にとっては、その文を解することは、ほとんどお手上げとなってしまうからである。
自分が英文を読む場合のことを考えたらいい。
知らない単語が1個ぐらいであればなんとかなる。
知らない単語が1文あたり2個も3個もあったら、その文の意味をとることはかなり厳しくなってくる。

子供にとっても同じことだ。

そんなとき、文を読んでいるのではなく、会話しているのだったら、どうだろうか。
その場合には、相手の身振りや表情といった助けがある。
また、会話をしている状況という豊富な情報源がある。
それらを巨大な補助として、僕らは、わからない単語がかなり含まれてしまっていたとしても、かなりの程度まで、相手の言っていることを理解することができてしまったりする。
ソースは俺。

皆さんにもそういう体験はけっこうあるのではなかろうか。

子供にとって、何より大切なのは、経験である。
しかし、子供を一人で世界旅行へ送り出すことはなかなか難しい。
親だって忙しいので、子供と一緒に世界旅行へ行ってやれる親は、なかなかいない。
あるいは、虫の世界を旅したり、宇宙を旅したり、海底二万リーグを旅したりすることは、現代の科学技術水準では、まだかなり難しい。
だから、そうした環境で、そういう世界の人々と会話する体験も、本当に得ることは、困難である。

そこで、本があるのだ。
この点は、児童書派の方も、大いに同意してくださる点だろうとおもう。

子供たちは本によって、大いに疑似体験をすることができる。
本を精神の糧として、子供たちは成長する。
親や友人や先生が直接的に与えてやれない素敵な旅を、子供たちは本を通じて自由自在に楽しむだろう。
本こそは子供たちにとって不可欠の体験なのだ。

そして上で書いたように、その体験の質の豊富さ、あるいはそれ以前に体験の内容そのものの受容しやすさにおいて、漫画は児童書を上回っていることが多いとおもうのである。

漫画でのほうが、児童書でよりも、子供たちはより、そこに書かれている体験をしやすいだろう。
なぜならば、絵や漫画的記号の助けにより、たとえ知らない単語が多少あったとしても、子供はそこで提供されている体験を受容できる可能性が高まるからである。

もちろん、暴力的すぎる漫画や、性的すぎる漫画があるから、漫画は無分別に子供に与えるべきではない、という意見があるだろう。
それには100%同意する。
それと同時に、漫画でない書物のなかにも、そのようなものはいくらでもありますよね、と反論せざるをえない。
暴力的なものがあるとか、性的なものがある、というのは、漫画に限られた特性ではない。
インターネットへのアクセスも同様だと思う。

であるならば、なぜ子供に、漫画を与えてはならないのか。
児童書は漫画よりも、子供に与えるものとして「適切」とされるのか。
それに同意できない者は親失格なのか。

いろいろググってもみた。だが…。

僕には理解できないのである。

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